スルヤーン修道院(6世紀)

この僧院の建立は他のワーディー・ナトルーンの僧院とは多少様相を異にし、6世紀に起こったコプト教会内部の分派活動を物語る例として知られる。5世紀半ばから6世紀前半にかけてのエジプトの地は、両性説(ディオフィジット)を支持した451年のカルケドン公会議に対抗して単性説派(モノフィジット)が逆に力を増してきた時期であったが、主流となった単性説の側でもさまざまな内部抗争があった。とりわけ反コンスタンティノープルの急先鋒として活躍したアレキサンドリア主教セウェロス(サウィロス)と、同じく単性説派に与して任地を追放になったハリカルナッソス主教ユリアノスの論争は結果的にコプト教会大きく二つの勢力に分けることになった。この論争は、子としてのペルソナをそなえるキリストの身体が腐敗すると唱えた(腐敗説)のに対し、後者は御言葉の受肉ゆえに腐敗はあり得ないとした(非腐敗派もしくは幻想派)。6世紀の初頭、ワーディー・ナトルーンの僧院の僧院はハリカルナッソスのユリアノスの流れを汲む非腐敗派が覇権をとるに至ったが、アンバー・ビショイ修道院の中にいた腐敗派(サウィロス派)が分派してそこから程近いところに新たな僧院を構えた。これがスルヤーン修道院の始まりである。この両者の対立は710年の和解によって解消し、この新しい僧院が一時シリアの修道僧(単性説派)によって買い上げられ、そこからシリア(=スルヤーン)の名が付けられるようになった。それから長い間この僧院はシリア東部から修道僧を集めて機能していたが、同地域がモンゴルやティムール帝国の略奪を受けて疲弊し、修道僧も送れなくなったことから、徐々にコプト修道僧との混住が始まり17世紀にはコプトの僧院となった。

僧院の形状は東西に細長く、そのシルエットからしばしばノアの方舟に例えられる。この僧院の中心となる聖母聖堂はかつて聖者ビショイが修行をした小さな隠修所に接して建てられ、その形状から8世紀初頭の建立と推測される。

今日はドームを連続させているが、当初はカイロのコプト地区の聖堂と同じく木造の小屋組を載せていたと思われる。内陣仕切りに設けられた木製の扉には美しい象眼細工が施され、教会の歴史を象徴的に表していることから「象徴の扉」と呼ばれる。他方東側にあるシット・マルヤム(聖マリア)聖堂は、横に拡がったシリア型の平面をとり、11世紀以降の建設とみなされている。また囲壁と合体した避難塔は15メートルの高さをもち、明らかに囲壁に先立って建設された(9世紀)。(三宅理一)

図面
  • 1-正門
  • 2-聖母聖堂
  • 3-聖母小聖堂
  • 4-聖ビショイの隠修所
  • 5-大食堂
  • 6-避難塔
  • 7-聖マリア聖堂
  • 8-僧房
  • 9-聖エフライムの樹
  • 10-新僧房
  • 11-工房
  • 12-給水塔