アンバー・ビショイ修道院(4世紀)

その名からもわかる通り、この僧院は砂漠の聖者ビショイ(ブショイ)から名をとられている(中ナイル、アフミームの聖者ビショイとは別人)。320年に生まれ、20歳のとき、天使の声を聞いてスケティス(ワーディー・ナトルーン)の砂漠に赴き、朋友ユハンニス・コロボスとともに聖者ベモアの教えを受ける。ペモアの死後、今日のスルヤーン修道院の場所に岩で造った隠修所に籠もり、厳しい修行に明け暮れた。その周りに多くの弟子が集まるようになり、そのひとりでもあったシリア出身の隠修者エフライムが残した種子から育ったというタマリンドの木が今でも茂っている。407年に発生した遊牧民の襲撃の折に、ビショイは中ナイルのアンティノーポリス(今日のアンシーナ)に逃れ、その地に僧院を興す。417年に他界し、彼の亡骸は長い間その地に葬られていたが、841年になってワーディー・ナトルーンの聖ビショイ修道院に移された。この聖ビショイ修道院が活動を始めたのは、ビショイがこの地に隠修をしていた4世紀のことと伝えられているが、一説にはコプト教会内の論争が高まっていた6世紀の初めから半ばにかけてともいう。いずれにしても、6世紀には、単性説派内で腐敗派(サウィロス派)と非腐敗派(ユリアノス派)との争いがあり、この僧院が非腐敗派に制圧されたために、腐敗派はここを出て今日のスルヤーン修道院を創設するといういきさつがある。

今日の僧院は、アラブ侵攻の後、総主教バニヤミン1世の下で大々的に建て替えられた建物を基本にしており、もっとも古いとされる聖ビショイ聖堂も9世紀に再建されたといわれ、その後も内部を何度も作り替えている。おそらく聖ビショイの亡骸が戻ってきた際に新たな建築プログラムが生み出されたのであろう。この聖ビショイ聖堂の北と南にそれぞれと小さな聖母・聖ベニヤミン聖堂と聖イスヒロン聖堂が設けられ、特に後者が聖ビショイ聖堂と平行しているために二重聖堂の様相も呈している。この聖堂群をとりまくようにして僧房が並んでいるが、とりわけ印象的なのが聖堂群の西側に配された食堂である。これは日曜日のミサの後、修道僧が聖堂の西側から出てそのまま食堂に入って食事をとる慣習に依拠している。避難塔はきわめてよく計画され、二階と屋上にそれぞれ聖堂(礼拝堂)を有しているのが特徴的である。その完成度からいって11世紀後半のものと目されている。(三宅理一)

図面
  • 1-正門
  • 2-避難塔
  • 3-ゲストハウス
  • 4-庭園
  • 5-聖ビショイ聖堂
  • 6-聖ビショイの墓廟
  • 7-聖母・聖バニヤミン聖堂
  • 8-聖イスヒロン聖堂
  • 9-洗礼室
  • 10-聖ゲオルギオス聖堂
  • 11-大食堂
  • 12-墓地
  • 13-僧房
  • 14-聖メルクリオス聖堂の遺構
  • 15-製粉所
  • 16-図書館
  • 17-僧房