聖アントニオス修道院(361-363年)

聖アントニオス修道院をモデルとした僧院の形式は一般に散住型の僧院と呼ばれる。散住の原理は核となる寺院があり、その周りに数多くの隠修所(ラウラ)を散らばせて、緩やかなネットワークをかたちづくるものである。おそらくアントニオスの晩年には、既に今日の聖アントニオス修道院の原理も出来上がって、彼の弟子たちによって一定の僧院活動が営まれていたと推測される。彼の弟子であったマカリオスもその原理を踏襲したようで、ワーディー・ナトルーンの僧院群もおおむねそのような修道の形式をとっていたようだ。

この僧院の核となる聖アントニオス聖堂はこの僧院でもっとも古い建物で、少なくとも聖アントニオスに捧げられた祭壇は4世紀に遡るものと推測されている。その意味で、内陣、至聖所の一画は当初の聖堂(聖者廟)の痕跡を留めている。他方、聖堂本体はその平面形式から見る限り、中世のファーティマ朝以降の典型的な単廊縦長の平面をとっており、13世紀後半に建て直されたものと思われる。この聖堂の南西部(ナルテクス)に接続する小祭室(四つの被造物の礼拝堂)はおそらく聖堂本体に少し送れて作られたと考えられ、黙示録の光景を描き出したその半ドームは中世のフレスコ画の形式をよく今日に伝えている。

創建当時の聖アントニオス修道院は、聖アントニオス聖堂(前身の建物でおそらくは聖者廟を兼ねていた)を中心に他のいくつかの付属施設(厨房や食堂)を配し、僧房はその周りに散らばる形になっていたに違いない。典礼や食事の際に修道僧が集まるという半隠修的な生活が営まれていたようだが、問題は時折襲う遊牧民の攻撃で、それを防ぐためにやがて避難塔の建設が始められる。

今日の建物を見る限り、タワー状になった避難塔はワーディー・ナトルーンのそれと同じく中世の形態的特質をもっている。おそらくは初期のものの跡に建て直しを行ったのであろう。四層構成となり、地上レベルの第一層目には貯蔵庫と井戸(2カ所)、第二層目は食堂、第三層が僧房、第四層目が僧院長室と聖堂(大天使聖ミカエル聖堂)という具合に僧院の諸機能がコンパクトに収められている。この避難塔へのアクセスは二層目で隣の建物から跳ね上げ式のブリッジでなされているが、この隣の建物もその壁のつくり方から見て避難塔に準じた使われ方をされていたと思われる。一層目が倉庫、二層に聖堂(聖母聖堂)が置かれ、そのかたちは中世建立の聖ハドラ修道院(アスワン近郊)の避難塔に近い。

聖アントニオス聖堂の配置を上から眺めると、それらがどのように発展を遂げていったかが容易に追跡できる。中心部の聖アントニオス聖堂、避難所、僧房の一群は明らかにこの僧院のもっとも古い部分であり、そこを取り巻く壁が10世紀頃と推測されていることから、創建当初から中世初期にかけて、徐々に発展しこの規模に落ち着いたと考えられよう。その規模は70メートル×70メートルとなる、ワーディー・ナトルーンの僧院群とほぼ同じで、これがコプト僧院の適正な規模であったとみなして構わないであろう。その間にこの僧院内外の状況も大きく移り変わり、一時は単性説派のコプトではなくビザンツ正統派(両性説派)が住み込んでコプト修道僧を追い出したり、アラブ軍による殺戮が発生したり、めまぐるしい歴史を経験している。

中世における聖アントニオス修道院の最盛期は建て替えられた13世紀、アイユーブ朝の頃で、東側に敷地を大拡張し、内側に果樹園や菜園を設け、僧院全体を緑豊かな土地となした。エチオピアの最高位の聖職者(アブーナ)もこの僧院から続けて選出され、彼地の修道僧を住まわせるなどエチオピアとの絆も強くなる。古い建物が建て替えられたり修復されたのもこの時期であった。

その後、15世紀後半にはこの僧院の雑用をこなすために住み込んでいたベドウィンが反乱を起こしたりして、一時無人化したこともあったが、やがて秩序も回復し、16世紀半ばにワーディー・ナトルーンのスルヤーン修道院の修道士の力を得て再建工事を行っている。

今日の僧院のかなりの部分はこの16世紀から18世紀末に至る間に建て直されたと思われる。中心部のアポステレス聖堂や北側の聖マルコス聖堂はともに1760年代から70年代にかけての建立であり、それに付随する建造物群もこの時代のものが多い。1783年には全体を取り囲む外側の囲壁がつくられた。

修道僧の多くは中心地から北側にかけての僧房に起居しているが、この一画はさながら集落と街路の関係にも似た構成となっている。ひとつひとつの僧房が町屋のようになって連続し、それぞれが微妙に異なった表情をもつ。おそらく、創建当初から修道僧たちはタベニシ派のような集団居住(すなわち共同の建物に住み込む)ではなく、中心部の建築群の外側にあたかも町をかたちづくるように自身の僧房を構えたのであろう。アントニオスとは相反するが、彼ら修道僧(隠修士)たちは最小限の身の回り品(財産)を携えてこの僧房に入り、中に籠って自身の孤独な生活を送るのである。今日でも何人もの隠修僧たちが僧院の本来業務から離れて、この中のいくつかの僧房(すなわち隠修所)で過ごしている。

現在の僧院の区画は全体で4ヘクタールほどあるが、外周の周壁がつくられたのは1854年、この僧院出身のアレキサンドリア総主教キリロス4世の下であった。僧院内に多くの庭園や耕作地をかかえ、さながらひとつの小都市のように僧院全体をつくりあげたのである。

この僧院(本院)の外にも、いくつもの隠修所が点在している。クルズム山の中腹にはアントニオス本人の洞窟やその弟子たるブーラ(隠者ブーラとは別人)の洞窟があり、さらにそこから離れた一帯に数多くの隠修所(僧院)が発見されている。その中にはひとりの修道士が籠って修行を行うためにつくられた粗末な石造の建物(たとえばワーディー・ナトゥフェの隠修所)や数人の共同生活のための建物(ワーディー・ハネバの隠修所、バヒット修道院)などいくつものタイプがみられるが、後者の方は修道制の原理をより保っており、その延長線上に隠修を位置づけた場所とみなされよう。こうした遺跡の分布からみて、このワーディー・アラバ一帯も、ワーディー・ナトルーンほどではないにせよ、古代から中世にかけて多くの隠修士や修道僧を惹きつけた場所であったと推測されよう。その中のいくつかの場所には泉があり、おそらくはそこで一定程度の自給自足の生活も可能であったに違いない。一見不毛な岩山と砂漠の地もよく眺めてみるとごく稀に水が湧きだし草木が茂る土地を見出すことができるのである。聖アントニオス修道院は、その聖者のもつ圧倒的な力を背景として、長い歴史の過程を今日まで生き長らえてきたのである。(三宅理一)

図面
  • ▲ 旧城壁
  • □ 18世紀建設の城壁
  • ■ 19世紀建設の城壁
  • 1-正門
  • 2-旧宿泊所
  • 3-聖アントニオス・パウロス聖堂
  • 4-僧房
  • 5-避難塔
  • 6-避難塔(僧房:一階)
  • 7-聖母聖堂(二階)
  • 8-聖アントニオス聖堂
  • 9-アポテレス聖堂
  • 10-製粉所
  • 11-製パン所
  • 12-僧房
  • 13-図書館
  • 14-聖マルコス聖堂
  • 15-ポンプ室
  • 16-給水塔
  • 4-1 外壁
  • 4-2 遠景
  • 4-3 正門
  • 4-4 入口
  • 4-5 旧宿泊所
  • 4-6 アンバー・アントニオス・ワ・ブーラ
  • 4-7 通廊
  • 4-8 避難塔
  • 4-9 ドーム
  • 4-10 菜園
  • 4-11 井戸
  • 4-12 上の庭
  • 4-13 給水塔
  • 4-14 天井
  • 4-15 扉
  • 4-16 昇降機
  • 4-17 物品
図面
  • 古い避難塔(左)
  • 1階-井戸、倉庫
  • 2階-跳ね橋
  • 3階-共用室(集会、食事など)
  • 4階-僧房
  • 5階-大天使ミカエル聖堂、僧房
  • 新しい避難塔(右)
  • 1階-大食堂
  • 2階-僧房、跳ね橋
  • 3階-聖母聖堂