聖ビショイ修道院(赤の修道院)(5世紀後半から6世紀)

ソハーグの町は今でもコプト教徒が数多く住むコプトの伝統を誇る町である。ナイル河左岸がソハーグ、右岸がアフミーヤと行政単位を分けているが、その双方とも古代以来の僧院文化を今日に伝えている。ここ一帯の僧院の形式はアスユート以北のそれとは大きく異なり、洞窟や新王国の廟墓を転用したものではなく、独自の建築様式を生み出し継承してきたことで知られる。その中でも、ソハーグの市街から10数キロの砂漠との境目のところに位置するこの聖ビショイ修道院はその南の聖シェヌーダ修道院(白の修道院)とともに、古代末期の整った僧院形式を今なお保った建築といえよう。

通称「赤の修道院」と呼ばれるようになったのは、赤色の煉瓦や砂岩による建物ゆえにであるが、「白の修道院」との対比の意味も含まれているのは明らかだ。

この僧院の名の元になった聖者ビショイ(プショイ)はワーディー・ナトルーンの同名の聖者とは別人で、その一生についてはあまり知られていない。聖シェヌーダの伝記の中で、彼に付き従った砂漠の隠修士として描かれ、おそらくは生成当時のシェヌーダの共同体の中で、指導的な立場にあった聖職者であったのだろう。

本来、この僧院は現在の聖堂(囲壁)よりもはるかに大きな敷地を有していた。中世の記述にはこの聖堂本体が四方から浮き上がって見えると記されており、今日のように隣接する集落と一体化したのはつい最近のことと思われる。現に南の門の外側には避難塔が建てられており、昔は聖堂、避難塔、その他の施設が広い敷地の中に散りばめられた配置であったことを窺わせる。

聖堂本体は、南の聖シェヌーダ修道院の縮小形と理解され、それよりも半世紀ほど遅れた5世紀後半から6世紀にかけて順次建立されたと推測されている。聖シェヌーダ修道院と比べると、西のナルテクスがないが、至聖所、内陣が三葉形となり、前廊をともなう三廊式バシリカである点は、古代のモデルに則っている。屋根は木造小屋組であり、その梁や垂木を受ける窪みが壁面に設けられている。

この建築はディティール的にも傑出しており、至聖所、内陣部分の円柱やペディメントなどローマの影響を強く受けながらも、それが土着化(コプト化)していくプロセスを如実に表している。芸術性という点ではむしろ聖シェヌーダ修道院を凌ぐといってもよい。(三宅理一)

図面
  • 1-正門
  • 2-至聖所
  • 3-内陣
  • 4-身廊(旧プレスビテリオン)
  • 5-中庭