マディーナト・ハブ神殿のコプト遺構(不明)

マディーナト・ハブ神殿はラムセス3世の葬祭神殿である。神殿区域へのコプト教徒の定着は、早くも第21王朝のときより始まった神殿区域への一般市民の移住からの連続であり、その最終段階である。当初、それは周囲を取り巻く城壁の内側の領域にはっきりと限られており、神殿のいくらかの改造、再建と並行して起こった。ラムセス3世門の南東の側面にある住居群など、大部分の住宅施設はローマ時代のものだと証明されている。古代の宗教の消滅の後キリスト教時代に入ると、神殿のあたりでの改築の動きは相当な度合まで増大し、そして前の時代までは常に触れられないままであった神殿それ自体を占有した。数多くの住宅施設の遺構が中庭に確認されてきたし、第二の中庭には教会が建てられた。このようにして、コプトの住民たちは神殿建造物の内側へと押し入ったのである。

神殿地域のコプトの占有の遺構は、とりわけ神殿の北側の地域において多くの数が確認されている。今日ではそれらは倒壊しているが、発掘に際し、往時の居住者たちの生活の様相、形態についての理解を供するに十分なほど大量であった。たいていの家には階段が備え付けられ、住居はしばしば数階の高さがあった。それら住居は互いに隣接して建てられ厚い外壁を共有していた。大通りはおおよそ直線の道であるが、他にも多くの無計画な小道があった。西暦8世紀、もしくは9世紀にこの定住地は放棄されたが、その理由は知られていない。

住居に加えて、この神殿の地域にはいくつかの教会があった。かつて第二神殿を占有した巨大な五廊式バシリカはもっとも重要である。このバシリカは東向きに建てられており、それ故神殿の本来の軸線を横切っている。アプスの場のために、東側のファラオの円柱が破棄された。しかしながら、内側に囲まれた壁面を得るために、オシリスの柱のみが破壊され、柱の間の空間が壁でふさがれた。教会には2階席が備え付けられていたが位置は不明である。年代的に、この教会はおそらく6世紀の半ば、もしくは後半に属している。

囲壁の堅牢な東門の前のバシリカは相当に控えめであり、明らかにより後代のものである。しかしながらエジプトのキリスト教教会建築を理解するにあたり、それはフルス(至聖所と身廊の間の部屋)と、アプス開口部の前に置かれた凱旋門アーチの発達の重要な段階を形成する。三葉形至聖所とともにとりわけエジプトの教会の特徴で、東の列柱が巨大な交差壁に結合し、巨大なアーチ開口部によってのみ中断される唯一の例である。教会のその他の部分は通常の様式に従っている。たとえば、南東には追加の側室がある。外側入口のナルテクスと階段はのちに加えられた。西側の隣接する建物は聖職者の住居であったのだろう。

アイとホルエムヘブの神殿域にある小さな教会はマディーナト・ハブ神殿の実際の神殿の領域の北の外側まで広がっており、それは古いローマ建築の再建の結果である。教会そのものは一室の至聖所からなる一室のチャペルである。この再建において同時に、南側のナルテクスと、その用途はなお明らかでない大きな西側の部屋が追加された。(阪本)